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校友インタビュー

明治大学の卒業生である校友の方々は、さまざまな分野でご活躍されています。本記事は、明治大学の著名な校友の方にインタビューさせていただき、その内容をもとに作成したものです。滅多に聞くことができない野村不動産ホールディングス会長・沓掛英二さんの学生時代のお話に注目です。
Profile
沓掛英二(くつかけえいじ)
1960年生まれ。長野県長野市出身。1984年に明治大学政治経済学部を卒業、同年野村證券入社。支店長、執行役員、常務執行役員等を歴任し、2012年 同社代表執行役副社長に就任。2014年 野村不動産ホールディングス代表取締役兼副社長執行役員、2015年に代表取締役社長兼社長執行役員、2017年にグループCEO就任、2023年より同社取締役会長(現任)
未来を見据え挑戦し続ける、実業家の轍

明治大学に入学した理由は?
僕は長野県出身で、高校まで長野だったんです。東京で学びたいなという気持ちがありました。当時は高校でも半数近くが長野の大学に行っていたんですけど、それに反骨したというか(笑)、好奇心もあって、東京にある明治大学を目指したんですよ。あとは、幼い頃からラグビーの明早戦だったり、六大学野球に興味があったのもきっかけだったと思います。中学時代は歴史が好きだったんですが、その時の先生が明治大学で考古学を研究していて、その話を聞いていたことも明治大学で学びたいと思ったきっかけの一つだったと思います。

政治経済学部を選んだ理由は?
経済をしっかり勉強したいという気持ちがあって、政治経済学部の経済学科に進学しました。当時、1980年代の世の中は、高度経済成長を経て「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という風に言われていて世界経済を席巻していました。そういった時代背景もあって、政治経済学部で学びたいと思いました。

どのような学生生活を送っていましたか?
「勉強しないとまずいな」という気持ちは入学したときからありましたね。当時の大学生は、大学入ったら遊ぼうっていう人が結構いたんですよ。今はどうなんだろうな(笑)。そんな中でも、目的を持って学ぼうという意思は強かった。特に英語には力を入れていました。今は留学だったり、ホームステイだったり、海外で学ぶ制度が色々あると思うんですけど、僕が学生のときはそういった制度が充実していなくて。やっぱり、学生なりに海外に行きたいという憧れが強かったです。それで、自分なりに英会話スクールに通うなどして、勉強を続けていました。
もちろんアルバイトもやっていました。そうは言っても遊ぶにはお金が必要ですから(笑)。青山のサバティーニというレストランで4年間働いていました。当時はイタリア料理が今ほど身近ではなくて、実際にイタリア料理を作ったり、賄いでイタリア料理を食べることができたりしたのは魅力的でした。レストランに来るお客さんも接待の外国人が多かったんですよ。接客の際は、当時力を入れて勉強していた英語を実際に使っていました。

遊びも学業も全力だったのですね。
そうですね。でもアルバイトや遊びに傾倒しすぎると、勉強が疎かになってしまうじゃないですか。そうなると大学を卒業できなくなってしまうので、「絶対に卒業するぞ」って、心に誓っていました(笑)。

何かサークルには入っていましたか。
オールラウンドスポーツサークルに入っていました。テニス、スキー、いろいろやっていました。オールラウンドに遊ぶサークルでしたね。長野県出身ということもあって、幼い頃からスキーをしていました。また、バスケットボールを高校まで続けていました。体を動かすのが好きだったんです。

運動が好きということで、大学の授業でも体育科目を取っていたのですか?
取っていました。体育科目以外にも、当時は1、2年次からゼミがあって、星野教授のスポーツゼミに入っていました。夏と冬で合宿があって、それも思い出深いですね。

学生生活で大切にしていたことはありますか?
人と人との繋がりは大事にしていました。ゼミやクラス、サークルをはじめとした大学時代の繋がりは今でも残っています。今度、当時のクラスで集まるんですよ。4年前に、還暦のお祝いで集まることを予定していたんですけど、新型コロナウイルスの影響で集まれなくて。4年越しの実現です。
大学のクラスって、中学や高校に比べて繋がりが浅くなりがちだと思います。だけど、大学時代の繋がりは大切だと思うんです。今でも、当時の知り合いと話すと盛り上がりますし、楽しいです。その繋がりが、心のふるさとになっています。

学生時代に行っていた思い出のお店はありますか?
神保町の「いもや」というお店があって、とんかつと天ぷらのお店なんですよ。おかわりが無料だったんです。その代わり、残したら200円取られていました(笑)。当時は人気だったので、いつも行列ができていました。お昼時は、そこばかり行っていましたね。今もまだ残っているのかな。

暖簾分けされた店はある様ですが、当時の「いもや」は閉店された様です。
そうなんですか、それは残念ですね。

明大前で印象に残っているお店はありますか。
居酒屋の「宮古」ってお店があったんです。今もあると思います。沖縄料理のお店だったかな。行ったときはいつもゴーヤチャンプルーを頼んでましたね。

明大祭に行かれたことはありますか?
もちろん。当時は和泉祭・駿台祭に分かれており、和泉と駿河台の2つのキャンパスでそれぞれ開かれていました。駿河台キャンパスの記念館にステージが設置されていて、当時は有名な歌手や芸能人が来て、コンサートやショーをしていたんです。観客も結構な人数が来ていて、行列ができていましたね。
当時、ミュージシャンの「世良公則」が好きだったのですが、駿台祭に出演すると聞いて私もチケットを買ってステージを見ましたね。
あと、サークルで屋台も出店しました。焼きそばの屋台で、ずっと焼きそばを焼いていました。

大学生活の学びで、今のお仕事に役立っていることはありますか?
世界情勢や国内外の経済状況といった、大きな経済の流れについて、常にグローバルな視点で見ることの重要性です。これは現在、仕事をする上でもベースになっています。経済の流れや方向性を捉えて経営の舵を取ることは、大学生活での学びが礎なんです。現実の経済や、国や、人の流れを自分の目で見て、実際に感じることってとても大事なことだと思うんです。みなさんは海外に行ったことがありますか?

まだあまり行ったことがないです。
もうとにかく、実際に海外に行ってみて刺激を受けるしかないと思います。今の若者ってちょっと内向的な感じがするんですよね。海外に出て、水でも空気でも浴びて来いと。海外に対する恐怖感もあると思いますが、欧米諸国やグローバルサウスなど、海外経済の成長スピードを肌で感じることは、世界の幅を広げることに繋がるはずです。学生時代というのは、そういった外の世界に挑戦する時間が取れる、貴重な期間だと思います。ぜひ挑戦してみてください。

現在のお仕事において、大切にされていることはありますか?
物事を自分で見て、感じて、その背景にある経済などのデータを突き合わせること、それをベースに、大局観や方向性などを判断していく、これが大切だと思います。
僕も今までの人生で、数々の決断をしてきたと思います。明治大学に入学したこともその決断の一つです。後々振り返ったときに、多くの選択、決断があるはずです。「『心の』前へ」と言いましょうか。これまで、これからにおける決断を、誰かに決めてもらうのではなくて、自ら決めて進むべきだと思います。決断する際は、自分を分析すること、自分は何になりたいのかよく考えること、その時々の世の中の流れだとか、背景にある理由をはっきりさせるべきです。
経営においても同じです。会社自体がどういう形であるべきか、見極めたうえで決断を下すということを大切にしてきました。

最後に明大生にメッセージをお願いします。
「挑戦し続ける精神」、「国際的な姿勢」、「多様性」、この3つのキーワードを大切にしてください。
今放映されている「虎に翼」のように、昭和時代初期は女性の学生も少なく、ましてや女性が弁護士を目指すなんてことはとてつもない挑戦でした。今の明治大学には、当時に比べて女性の学生も多く、また海外からの留学生も増えています。これに加えて、多岐にわたる学部も含めた「多様性」が、多くの学生に支持されているのではと感じます。大切なのは、多様性のあるよい大学になったな、で終わらないことです。重要なのはこれからです。もう一段、明治大学が成長、発展していくためには、何が大切かと考えることです。「次なる前へ」というのを各々が考えていく必要があると思います。海外に目を向け、グローバルな考え方を受け入れるとともに、将来に向かって挑戦し続けてください。
取材:太田悠翔・竹内悠花/写真:大野友也

このインタビューは2024年9月に行ったものです。